ムチギン・ジャジェチアン(私たちの家族)ができるまで

− コリャーク語保存の一つの小さな試み −

 

呉人 恵

(富山大学)

 

0.  はじめに

以下では、1994年からフィールドワークをおこなってきたシベリア北東部に分布するコリャーク語という言語の危機的な状況に対し、迷い、戸惑い、試行錯誤するなかで、どのようにこれまで私なりの対峙の仕方を探ってきたかについて述べたい。

 もちろん、言語の危機状況に対して、「これさえあれば、絶対に大丈夫」というような、どのフィールドにも効く特効薬、あるいは処方箋があるわけではない。一言で言語の危機といっても、おそらく言語の数だけ、フィールドの数だけ異なる事情があるにちがいない。例えば、昨日の東アフリカの事例、アイヌ語の事例、そして今日のオセアニア諸言語の事例しかり、いずれも危機に直面している点では共通しているが、その中身はそれぞれに異なる。なかには、極めて重篤な危機に瀕しており、言語学者は、いわばホスピスで末期がん患者を看取るような覚悟で向かい合わなければならない言語もあるであろう。一方、私の対象としているコリャーク語などはその一例かもしれないが、同じく決して予断を許さない状況ではあるけれど、それでも絶望的といって諦めるには早い言語もあるかもしれない。

 そのようなそれぞれのフィールドの特殊性に、さらに、研究者のさまざまな個性が絡み合ってくる。同僚の日本語学者、加藤重広さん (2001:262) のたとえを借りて、研究というのを10階建てぐらいの建物だとすると、人によっては、いつも10階とか9階とかせいぜい8階あたりの、見晴らしのいい所で研究をしたいという人もいるかもしれない。1階とか2階に下りて行くのはあまり好きではない。いや本音では、1階や2階にも下りて、下の様子も見てみたいけれども、どうもすんなり下りていけないというような人もいるかもしれない。あるいは、人によっては1階から10階まで行ったり来たりしながら、フットワークを鍛えたいというような研究者もいるかもしれない。また、私のように根が下町的にできている人間は、いつも10階や9階にいて優雅で静かな研究生活を送りたいと願いつつも、気がつくと、1階とか2階のあたりをうろうろしているということもある。また、どの程度までを危機的と見るかも、またそれに対する腹のくくり方も、研究者によって異なるだろう。

このように、フィールドの多様な特殊性と研究者の多様な個性とが相互作用しあうことにより、おそらく、それこそ言語の数だけ違う処方箋が作られなければならないであろう。したがって、以下の私の話も、他のフィールドに取り組む研究者の方々にどれだけ役に立ちうるのかははなはだ心もとないが、一つの事例として、こんなフィールドでこんなことをしている研究者もいるのかと、参考にしていただければ幸いである。

 

1.  コリャーク語の現況

 まず以下では、コリャーク語の現況について簡単に概観しておきたい。

1.1.  分布地域

コリャーク語は、ロシア極東部、カムチャツカ半島北部のコリャーク自治管区と、その対岸、すなわち大陸側のマガダン州セヴェロ・エヴェンスク地区に分布する言語である。私自身がこれまでフィールドワークをおこなってきたのは、このセヴェロ・エヴェンスク地区のチャイブハ、エヴェンスク、ヴェルフ・パレニ、ギジガの各村である。

1.2.  系統

コリャーク語は系統的には、周辺のチュクチ語、ケレク語、アリュートル語、イテリメン語とチュクチ・カムチャツカ語族を形成する。また、さらに広くは、シベリアにアルタイ諸語、ウラル語族といった大言語が進出してくる以前の古い時代から分布していた言語として包括される古アジア諸語のひとつに数えられている。

1.3. 話者数

コリャーク族総人口8,942人の52.4% 、すなわち、4,700人弱がコリャーク語を母語と見なしていると言われている (Sidorova 1994:32-33)。もっとも、この数値が、コリャーク語の運用能力を潜在的に持っているか否かという基準で出されたものか、あるいはコリャーク語を日常的に使っているか否かという基準で出されたものかは明らかではない。40歳以上ではコリャーク語の潜在的な運用能力は多少保存されているものの、大半はロシア語との2言語併用であり、日常生活においてはロシア語の使用が圧倒的優勢を占めているという私のフィールドの現状にかんがみれば、前者の基準により出された数値であると考える方がより現実的である。いずれにせよ、さらに若い子どもたちの世代になると、日常生活における使用はいうに及ばず、潜在的なコリャーク語運用能力ももたない子供が大半であり、その意味では、大変、冷酷な言い方ではあるが、コリャーク語は、未来への継承の道が閉ざされかけた言語といわざるをえない。

1.4. コリャーク語教育

セヴェロ・エヴェンスク地区民族寄宿学校では、今もコリャーク語の授業が行われている。とはいえ、その授業が子供たちのコリャーク語運用能力の向上にどれほど貢献しているかは、はなはだ疑わしい。コリャーク語の授業は0年生から7年生までは週3コマある。1コマ40分授業であるから、週120分にコリャーク語を勉強していることになる。ところが8年生では週に2コマ、9年生から11年生では週1コマと、学年が上がるにつれてコリャーク語の授業は減っていく。ロシア語及びロシア文学の授業が、0年生から11年生までの全学年万遍なく週5コマずつおこなわれているのに比べると、このコリャーク語の授業数はあまりにも少ない。そのうえ、0年生から11年生までの12学年に対して、教師はタチアーナ・カヴァーヴナ・ユーリエヴナさん(1959年生まれ)一人だけである。セヴェロ・エヴェンスク地区は、コリャーク語の中心であるコリャーク自治管区からは直線距離ではそれほど遠くないが、直接の交通手段がないため、相互交流はまったくおこなわれていない。そのような状況のもとで、満足な教科書も教授法もなくたった一人で、全学年の子供たちにコリャーク語を教えていかなければならないことが、どれほど重い負担をタチアーナさんに強いているかは想像してあまりある。

授業風景をお見せしたビデオからもうかがえるように、子どもたちは上級生になっても、「あなたの名前は何ですか?」「私の名前は何々です」というような簡単な会話もおぼつかない。多くの子供たちは、自分たちの民族のことばを外国語のように少しかじっただけで、いずれは忘れていってしまうのである。

1.5. コミュニティの意識

 このようなコリャーク語の危機的な状況に対して、コミュニティの人々は自分たちの民族の言語、ひいては民族のアイデンティティが急速に失われつつあるという危機感はたしかに抱いている。しかし、それに対して自分たちがなにをしなければならないのかという問題意識は希薄で、言語保持のための具体的な動きもこれまではほとんど見られなかった。このような消極的な姿勢にはさまざまな原因が考えられるが、なによりも、16世紀から今日まで脈々と続いてきた中央政府のシベリア開発が、コリャーク族のアイデンティティ喪失の危機を招来したその影響の甚大さを無視するわけにいかない。言語についてみれば、ロシア語への同化政策は先住民に根深く浸透しており、ペレストロイカによるソビエト政権崩壊後、ようやく民族主義が叫ばれるようになったものの、民族語復興のための具体的方策も立てられないままに、同化のスピードは加速される一方というのが現状である。加えて、劣悪な経済状況、アルコール中毒、結核などの病弊の蔓延などは、コリャーク族から言語復興のための士気を剥奪しているといわざるをえない。

 

2. コリャーク語研究の2つのあるべき方向性

 およそフィールドワークによって、コリャーク語のような危機に瀕した言語の掘り起こしに取り組んでいこうとするならば、自分には大きく2つの仕事が課されているという心がまえが必要であろう。そのひとつは、現地からいただいた言語の知識を文法、辞書、民話のテキストなどとしてまとめあげ記録保存するという仕事。そして、もうひとつは、そのような研究成果を、その言語が生きた言語として保持されていくために役立てることによって、現地に返すという仕事である。研究者なのだから記録保存だけしていればいいというのでは、片手落ちである。2つの仕事が相互補完し合いながら、より豊かな研究へと統合されていくというのが、フィールド言語学者の目指すべき方向であると考えたい。それでも自分は記録保存の仕事だけに徹するのだというのであれば、それにはそれなりの冷徹な現状認識があってのうえでなければならないであろう。ところが、通常の社会生活においてはいただいたものはなんらかの形で返さなければならないという人間関係の原則をわきまえているはずの私たちでも、こと自分たちが対象としている言語のことになると、この原則をしばしば忘れてしまうということがある。

純粋に言語学的な興味からコリャーク語を始めた私自身、現地へ返すということが一体どういうことなのか長いこときちんと理解できなかった。自分がやっているコリャーク語の掘り起こしという仕事と、一歩外に出れば否応なく目に飛び込んでくるコリャーク族の厳しい現実の間に横たわるギャップの大きさに時に愕然としながらも、それにどのように対峙するべきかは棚上げにしたまま、調査を続けていた。しかし、フィールドはそれほど甘くはない。同じフィールドに長いこと通っていれば、いつかは必ず、自分が目をそむけて見ようとしないものがなんであるかを、厳しく突きつけられるときが来るものだと思う。

 

3.      ひとつの試み

3.1. きっかけ

私自身が現地還元の仕事を真剣に考えるようになるきっかけは、自分の仕事と、フィールドに通うたびに目にするコリャーク族の悲惨な現実とのギャップの大きさに自分自身が耐え切れなくなっていたちょうどその頃、一人のインフォーマントから浴びせられた痛烈な非難のことばだった。「お前は私たちから取るだけ取って、今までなにも残してこなかったじゃないか。もう来るな。コリャーク語は自分たちでだって守れるのだから」。厳しい冬に備えて、魚釣り、ベリー摘み、きのこ狩りに出かけなければならず、帰ってくればきたでそれらの調理に忙しい夏の季節に、彼らから多くの時間を奪い取る私はさぞかしうっとうしい存在であるにちがいない。もちろん、頭では私の仕事を理解してくれてはいても、ときに腹立ちまぎれに捨て台詞を投げつけたくなるのもよくわかる。しかし、私はこのことばを厳しく受け止めた。そして、今、自分がフィールドでの仕事のありかたを考え直さなければ、この先、フィールドにちゃんと受け入れてもらえなくなるときがくるかもしれないと考えた。

もうひとつのきっかけになったのは、ひとりのコリャーク語を流暢に話す少年との出会いであった。そのほとんどがロシア語に同化してしまった寄宿学校の子供たちのなかに、この少年を見つけたとき、私は、放っておけばこの少年のコリャーク語の能力もいずれは失われていくだろうが、それを見て見ぬふりして記録保存の仕事にだけ没頭していていいのだろうかと自問自答した。

3.2. ヒント

 とはいえ、具体的になにをすべきかがすぐに見つかったわけではない。そして、長いことなにをどのようにすることが現地へのお返しになるのかを暗中模索しているうちに、私はあるひとつのことばに出会った。それはワラパイ語というアメリカ・インディアンの言語を長年研究され、その復興運動にも深くかかわってこられた、カンザス大学の山本昭先生の「小さく始めなさい Start small」(2001:339) ということばだった。「子供たちを通じて親を仲間にしよう。その親たちを通じてそのまた親も仲間にしよう。小さく始めてその輪を広げよう」

 このことばに出会って目から鱗が落ちたように感じた私には、ようやく自分がやりたいことが見えてきた。私がやるべきことは、子供たちのために、そして子供たちといっしょにコリャーク語を残していく活動をすること、もうひとつは、老人たちのコリャーク語の知識をまとめあげた文法やテキストなどを「記念品」かなにかのように現地の人たちに贈呈したらそれで終わりというのではなく、それらを子供たちの中で再生できるものに作り直すことだと。そしてなによりも、これらのことを、私は自分ができる範囲で無理せず楽しみながら、細々とでいいから続けていきたいと思った。

3.3. 老人と子供のコリャーク語による交流会

 こうして、2001年1月4日、老人と子供のコリャーク語による初めての交流会がエヴェンスク村の私の部屋で開かれた。寄宿学校という閉鎖的な空間に暮らし、日頃、コリャーク語を耳にする機会の少ない子供たちに少しでもコリャーク語に関心をもってもらうためには、なによりも老人たちの豊かなコリャーク語の知識に耳を傾け、受け継いでいく場が必要だと考えてのことであった。

 私のこのような試みが現地の人々に受け入れられるかどうか、内心は大変、不安だったが、村に着いたその日、私を空港に出迎えてくれた友人たちに自分の部屋で交流会をやりたいのだけれどと言うと、すぐに皆賛成してくれた。そしてプログラム作り、招待状の配布、会場作りなど皆が協力してくれて、またたく間に交流会は実現の運びとなった。それまでは、コリャーク語についてあまり関心を示さなかったロシア人の友人たちまでが、私たちの交流会の主旨を理解してくれ、お菓子を焼いて差し入れしてくれたのもありがたかった。

 交流会には30人ほどのコリャークの老若男女が日本から用意してきた招待状片手に集まった。コリャーク語がおかれている現状と交流会の主旨をコリャーク語とロシア語で述べた寄宿学校のコリャーク語教師ターニャさんのはじめのことばに始まり、コリャーク語民話の紙芝居、子供たちのコリャーク語の単語言い競争、老人たちによるトナカイ橇につける道具や民族衣装の説明、呉人による日本の民話「ねずみの嫁入り」のコリャーク語版朗読など、会は予想以上に盛り上がった。プログラムは以下のとおりである。コリャーク語の流暢な少年ヴァーニャは、老人と子供たちのパイプ役を務めてくれた。

 

         ・ プログラム:

              (1)  はじめのことば(コリャーク語・ロシア語)

           Tat'jana Kavavna Jur'evna

                  ・コリャーク語の現状

            ・なぜ交流会を開くのか?

        (2)  コリャーク語民話

                    ・紙芝居「カワヒメマスとカワメンタイ」

              語り:Irina KechgEl'qot Gergol'tagovna (1936生)

              絵:大和温

              ロシア語訳:Itek Ivan Aleksandrovich (1987生)

              ・その他

         (3)  ゲーム(子供たち)

             ・誰が一番コリャーク語を知っているかな?

              (動物、家財道具・・)

             ・動物はどんな風に踊るのかな?

             ・コリャーク式腕相撲

         (4) コリャークはどんな道具を使ってきたかな?(老人たち)

             ・そり用トナカイに付ける道具

             ・トナカイ毛皮製の帽子、コート、ブーツ

         (5)  コリャークの歌

         (6)  日本の民話「ねずみの嫁入り」

            語り:呉人

            ロシア語訳:Tat'jana Kavavna Jur'evna

         (7)  交流会の命名(子供たち)

            太陽、星、翼、私たちの家族・・・

 

そして、最後には、子供たちからこのような会をこれからも続けていきたいという声があがり、会の名称はそのうちの一人が提案した「ムチギン・ジャジェチアン(私たちの家族)」に決まった。

3.4.    その後

 わずか1回の交流会で、子供たちがすぐさまコリャーク語の勉強に精を出し始めるなどは望むべくもないことではあるが、少なくとも、現地の人々が自分たちの言語を見直し、自発的に行動を起こす小さなきっかけにはなったかもしれないと思っている。

 現地の友人たちは私の帰国後、自分たちで同様の集いを開いたり、コリャーク語の授業に老人たちを招いて、子供たちと交流する場を作ったりし始めた。一方、私は帰国後すぐに会で私のインフォーマントの一人であるイリーナ・ケチゲルフット・ゲルゴーリタゴヴナさんに語っていただいたコリャーク語民話「カワヒメマスとカレイ」を絵本化する準備をした。この民話は、1995年に私がイリーナさんご自身から採録したもので、コリャーク語民話を集めた呉人(一ノ瀬)(1996) に収録したものである。これに富山在住の画家、大和温さんが絵をつけて下さり、紙芝居にして村にもっていったものが絵本の基になっている。絵本はすでに出版され(Kurebito ed. 2001)、現地に送り届けられた。授業の副読本などとして活用してほしいと思っている。

 さらにこれからは、子供たち自身がコリャーク民話掘り起こしの主体になっていくような方向で、絵本作りを展開して行きたいと考えている。具体的にはコリャーク語教師、タチアーナさんの指導のもとに、子供たちが老人を訪ねて民話を採録し、その絵本化を私がサポートするという体制でコリャーク民話の再生を試みていきたいと考え、準備を進めているところである。また、この他にタチアーナさんとはコリャーク語の教科書作りも計画中である。

 

4. おわりに

かつて私はコリャーク語の記録保存に自分の仕事のプライオリティを置いていたために、現地還元の仕事は時間の無駄だとすら思うことがあった。しかし、現地の人々との関係が知識をいただくだけの一方通行の関係から、共に働く関係に質的に転換したときから、フィールドワークは一段と生き生きと楽しくなった。シベリアのように厳しい生活条件、気候条件のもとで調査を続けていくには、とりわけフィールド、現地の人々を好きになれるかどうかが大きくものをいうと私は思う。したがって、フィールドを楽しめるようになったらしめたものである。フィールドが楽しくなって、研究そのものがよくなっていかないわけがない。その不思議な展開を実感した私は、これからも2つの仕事を根気よく続けていきたいと願っている。

 言語は変化する。それが言語の常態ならば、なにもたかだかひとつの小さな言語が直面している危機にやっきにならなくてもいいではないか。お前たちのやっていることは、いずれは失われていく言語のその喪失の速度をほんの少し遅くするだけの意味しかもっていないではないか。そういう考え方もあるかもしれない。しかし、コリャーク語が直面しているのは、自然死ではない。暴力的に、急激に、根こそぎに、コリャーク語は消滅に追いやられている。そして、そのような死は、常にそれを話す人々にはかりしれない痛みや苦しみをもたらすものだということを、私たちは深く心に刻む必要があるであろう。私たちがフィールド言語学を選んだのは、まさにそのような言語と人々の置かれている苛酷な現実にしっかりと向き合い、そこから生まれる人間的葛藤をとおして、言語学を真に人間的な学問へと熟成させていく営みを引き受けたことに他ならないのである。

 

【参考文献】

    一ノ瀬(呉人)恵(1996):「コリャーク語テキスト」『富山大学人文学部紀要』25, 21-53.

    加藤重広 (2001) :『みんなの日本語教室』(三笠書房)

    Kurebito, M. (ed.) (2001) : Chav’chyvalymngyl’ kychav’ to al’peal’ (Koryak Folktale; The Grayling and the Flatfish)(ELPR Publication Series A2-004)

    Sidorova, T.V. (1994) : Korjakskij jazyk, V.P. Neroznak (red.), Krasnaja kniga jazykov narodov Rossii, Entsiklopedicheskij slovar'-spravochnik (Moskva: Akademia), 32-33.   

    Yamamoto, A.Y. (2001) : Listen to the Voices of the Indigenous Peoples, Lectures on Endangered Languages: 2, From Kyoto Conference 2000 (ELPR Publication Series C002), 335-342.

 

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